2002/11/04(月)  


木更津キャッツアイ 終了によせて  ー理想郷を遠く離れてー

第1話を見終えた直後の感想で私は、
『モラトリアムの世界にどっぷりと浸っていた彼らが、『仲間の死』という逃れようのない現実を目の前に突きつけられ、長かったモラトリアム時代から抜け出して、どのように成長していくのか。現実に折り合いをつけて「大人の男」になっていく過程まで描ききってくれたら、このドラマは私的に凄い名作になるかもしれないなあ、と思うのです』

と書いていたのですが、全話を見終わった今考えてみても、最初に感じた私の予想は、それほど外れてはいなかったのかな、と思っています。

 宮藤さんが『鳩よ』のインタビューで木更津のことを「おかずばかりのドラマで、主食が見えない」というようなことを言っていました。実際『木更津〜』は、「 情報過多で説明不足で、視聴者を置いてけぼりにしているドラマ」、なんて事も言われていたらしいけれど、そうしたドラマの表層のおかずの部分(トリッキーな演出や小ネタの部分)を取り去って、主食の部分(話の骨格)だけを眺めてみると、これはまさに成長物語の王道を行く作品だったなと私は感じています。

「死」を取り扱った少年達の成長物語というと、洋書ではスティーブンキングの『スタンド・バイ・ミー』。和書では湯本香樹実の『夏の庭』が真っ先に私の頭に浮かびます。『スタンド〜』は、10代の少年達が森の中に死体を見つけに行く話で、『夏の庭』は、やはり少年達が『老人が死ぬ瞬間』を観察してやろうとする話です。詳細は実際に読んでもらうとして、どちらの話も身近な他人の「死」が、少年達の成長を促す装置として機能します。つまり誰かの「死」は、他の誰かの「成長」もしくは「再生」として働きます。

『木更津〜』にしても、話の構造自体は先に挙げた2作とほぼ同じです。ただ主役達の年齢層は違っていて、前2作は学童期の少年。『木更津〜』は前成人期の「子どもというには年を食っているが、まだ大人になり切れない中途半端な若者」。要するにモラトリアム真っ最中の青年達です。

 ここではモラトリアムを『社会に出る前の執行猶予期間』と便宜的に定義します。自分が何をしたいのか、何が出来るのかを見つけるために試行錯誤している時期です。 
 主役級の5人のうち、ぶっさん、アニ、バンビはいわゆるモラトリアム期にあり、大人と子供の間を浮遊する存在です。ただ、一応家業の手伝いをしているぶっさんや、「大学生」という肩書きのあるバンビは自分がそういう中途半端な時期にあることにさしたる苦悩は感じていないようでしたが、出来のいい弟と絶えず比較され、自分の名前すら周囲の人に認識してもらえない状態にあるアニは、この5人の中で自分の居場所探しにあえぐ若者という、現代特有のリアルな悩みを象徴する存在として描かれています。

 マスターは、モラトリアムに突入する前に結婚し、子どもを持ち、さしたる葛藤もなく居酒屋の主人となって、社会参加を果たしています。うっちーの場合は、あえて現実適応をする必要のないキャラとして描かれています。彼は、思いもつかないようなやり方で事件を解決し、話の表と裏を自由自在に移行し、物語の橋渡し役となってストーリーを展開させる、トリックスターとしての役割を担っているからです。
 だからこの二人は、最終話の冒頭、ぶっさんの死から数年立ったときであっても、その見た目にほとんど変化はありませんでした。
 その一方でバンビやアニは、髪型も色も落ち着いたものに戻し、何らかの定職あるいは自分の居場所を見つけたのだろうな、と暗示させる演出がなされていました。

 永遠に続くかのように思われていた時間にも、ピリオドがあるのだと言うことを彼らに知らしめたのが、『仲間の死』というどうしようもない現実でした。

 余命半年を告げられたぶっさんは、現実感に乏しいままそれを自分の運命として受け入れ、『普通』に過ごすことを選びます。ぶっさんの初期設定は「優柔不断で、問題を先送りにするタイプ」だったようですが、確かに高校卒業後も、進学も就職もせず、かといって完全なプータローというわけでもなかった彼は、確かに優柔不断と言えなくもないのでしょう。
 父親よりも床屋としての腕は上だし、家の手伝いもしているのだから、専門学校にでも行って美容師免許を取って家を継いでもいいはずなのに、それはしない。その根底にあるのは、「ずっとこのまま居心地の良いモラトリアムの世界で過ごしたい」、という願望であり、自らの変化や成長を消極的に拒んでいたとも考えられます。

 しかし、「余命半年」の宣告で、ぶっさんは変化を余儀なくされます。あと半年で自分が出来ること。仲間や親や先生のために自分が出来ること。それを考え、実行し始めました。2話でぶっさんはノートに、<あと半年で出来ること>を書いていましたが、なんだかんだで、そこに書かれていたこと(バイト、メジャーデビュー、デート、彼女、等)は、その後のストーリーの中でさりげなく実現していました。また、仲間や親や先生の問題も、直接的・間接的に、ぶっさんによって最終話までに解決がもたらされました。

 ぶっさんにとって、最後にして最大の課題は、迫り来る自分の死を、精神的にどう乗り越えるか、ということでした。
 5話で、ぶっさんはゴミ置き場に突っ込むようにして仲間の前で倒れました。結局これはただの睡眠不足だったわけですが、このエピソードは、ぶっさんの死は避けられないのだという事実を、ぶっさん以外の仲間達に突きつけます。
 さらに6話ではオジーの死体が、やはりゴミ捨て場にゴミと共に放置されていました。
 「お前ももうすぐこうなるんだよ。さあ、どうする?」と、主役にもその周辺の人々にも、そして視聴者にも、残酷なくらい容赦なく現実を提示したのです。『人は死んだらゴミになる』と言ったのが誰だったか思い出せませんが、この二つのシーンの呼応の仕方は当然偶然などではなく、脚本家の怜悧な死生観を反映しているのでしょう。
 主役の死を乗り越えるべき課題として、他ならぬ主役自身にこういう形で突きつけた物語を、私は寡聞にして知りません。
 突きつけられた難題の重さに、一時的に主役は鬱状態になりますが、先生や仲間達の手助けによって浮上します。そして、何度か危機状態に陥りつつも、妙に明るく、ほとんど良い意味での開き直りとも言えるようなラストにつながっていきました。

 『木更津キャッツアイ』が秀逸なのは、主役だけでなく、その仲間や彼らの周辺にいる「既に大人になっているはずの人々」にも、成長と変化が波及している点であるように思えます。

 その最たるものは、ぶっさんがアニに野球部監督の座を譲り渡したことでしょう。『野球部監督』という社会的な役割を与えられたアニは、自分の居場所を獲得し、同時に『兄』としての本来の役割も取り戻し、そのことを弟の純も受容しました。

 ふわふわといろいろな男のところを行き来していたモー子は、バンビという彼氏を作り、彼と結ばれることで、ただ一人の相手とこれからも過ごしていくことを選択しました。それは同時にバンビにとっても、大人の男への通過儀礼という意味合いをもっていました。

 妻の死後、「公平君」「公助」と呼び合う友達親子という、一見ほのぼのとしているようで実はいびつな立場でしか息子に対峙できなかった公助は、息子の死を目前にしてようやく「公平のやりたいようにやらせましょう」と、息子をよそよそしい「君」づけではなく名前で呼びました。それに対して息子は「・・・呼び捨て」と返します。ここでようやく彼らは、本来の父子関係を取り戻したのです。
 公助は息子の死と引き替えのように新しい伴侶をめとります。これは公助にとってもローズにとっても、新しい家庭の構築という点で画期的な変化ですが、ローズにとってはもう一つの意味を持ちます。ローズは、<バーバータブチ>の「ママ」になることで、気志團のメンバーに対しては拒否してきた「母親役割」を受け入れました。

 美礼先生は生徒達との関係に悩み、教頭にはストーカー行為をされ続け、精神に変調を来した結果、休職を余儀なくされました。そんな先生を元教え子のぶっさんは励まし続けました。それは、本来の教師と生徒の関係とは逆転しているものですが、この逆転関係は、ぶっさんがオジーの死を契機に抑鬱状態に陥ったことから、本来のあるべき関係を取り戻します。
「カッコ悪くたって、生きてる方が幸せじゃない」
との美礼先生の言葉で、
「なんだかやっと、正しい関係って感じっすね」
「こっちの方がいいね」
と、互いに本来の役割関係を取り戻したことを喜び合っています。

 やがて美礼先生も、ぶっさんに残された時間が後僅かだということを知ります。彼女は既に大切な人間を亡くしていました。それ以来、死んだ恋人の形見である白衣を着続けることで、死者を弔うと同時に、自分を外部の嫌なことから防衛し続けてきました。しかし、再び大切な人間を失うことで、彼女の心境には変化が訪れます。
 最終話で彼女は、自分を守る盾であった白衣を脱ぎ捨てました。そしてぶっさんに、
「生きている人間が、死んだ人間に何とかしてもらおうだなんて、カッコ悪いし、傲慢だわ」
と過去の喪失感からの決別を宣言しました。
 

 <木更津キャッツアイ>という作品は、誰もがほんの少しだけ自分が本来いるはずの位置からずれていて、そのずれに何となく居心地の悪さを感じていた人たちが、それぞれのあるべき場所に戻っていく話だったのではないかと、今となっては思います。

「最後に主人公が死ぬこと」
「でも決して湿っぽくならないこと」

 最初にプロデューサーは、作品化にあたってこの二つの条件を提示したそうです。
 内容的に相反するこの難しい設定を、脚本家は見事に作品の中に表現し、主役の死を単純に美化することもなく、悲劇だけにとどまらせることもなく、さらに一段上の高みにまで引き上げて終わりました。

 最終話を見終えて、再び最初からドラマを見返したとき、私の頭の中には、こんな言葉が降りてきました。
《主役は死ぬよ。それがどうした。こいつらみんなそれを受け入れて、かっこ悪くたって普通に生きてるぞ。どうだすげえだろ》
 
 『主人公の死』という手垢にまみれたテーマを、今まで見たこともないアプローチで描き、そして誰も出し得なかった解答を明確に出して、物語は終わりました。

 その奇跡にリアルタイムで立ち会えたことに、そしてこの作品が作り出された奇跡に、私は深い感謝の念を捧げます。



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