A Day in Our School Life

 彼は走っていた。
 背後から足音と、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。 
 上履きのまま校舎を飛び出し、闇雲に走る。
 とにかく逃げたかった。逃げてどうなるものでもないことは分かっていたが、他にどうすることも出来なかったのだ。
 裏庭を走ると、運動部が活動しているグラウンドの脇に出た。壁とフェンスの間の狭い隙間を蜘蛛の巣にまみれながら通り抜けると、小さな倉庫に突き当たった。ドアを開けて中に逃げ込む。
 饐えた汗と埃の臭いが彼の体を包んだ。無造作に置かれた体育用具の山をかき分け、数年間放置されたままであろう黴臭い運動マットの隣に体を沈める。追跡者達が自分に気づかずに通り過ぎてくれれば良いと願いながら。

 その願いは叶えられなかった。
 倉庫のドアが開いて、薄暗い空間に帯状に光が差しこみ、人が入ってきたのが分かった。足跡は複数。
 いっそう身を縮こまらせた彼の方に、一人がつかつかと近づくと、彼の肩をつかんで物陰から引きずり出した。歓声が上がる。

「内山クン、見ーっけた」
「やだなあ。何でこんなところに隠れてるの?」
「そうだよ。逃げないでよ。まるで俺たちがイジメてるみたいじゃん」
 耳障りな嘲笑。自分の体を小突き回す手と足。亀のように身を縮ませながら、彼は胸中で嘆息する。

 いつになったら飽きてくれるのだろう。

 突然、ガシャンという音とともに窓ガラスが割れた。彼を取り囲んでいた3人がぎょっとして振り向く。その足許に野球ボールが転々と転がり、一人の足に当たって止まった。

 ドアが開いた。
 ボールに注がれていた3人の視線がはじかれたように闖入者の元へと注がれた。
 倉庫の入り口に立っていたのは、野球部のユニフォームに身を包み、頭にキャッチャーマスクを載せた一人の少年だった。そのグローブには<TABUCHI>の文字。
 
 内山を取り囲んでいた一人が言った。
「なんだお前」
 精一杯先輩風を吹かせてみたものの、虚勢を張っているのが見え見えだった。他の二人は、まるでいたずらを見とがめられた小学生のように、おろおろと視線をさまよわせている。
 田渕公平は倉庫の中に入ると、床のボールを取り上げて手の中で転がした。そして、長い睫に縁取られた大きな瞳を半眼にし、微かな哀れみと軽蔑のこもった口調で彼らに応じた。
「先輩達こそこんなところで何やってるんすか。ここは野球部の物置ですよ」
「うるせえんだよ、1年。失せろ」
「最近、野球部の備品が減ってんすよね。先輩達がそんなことをするなんて思ってませんけど、こんなところにいたら、怪しまれますよ」
 嘘だった。しかしそれは、彼らにその場を立ち去る口実を与えるには十分な発言だった。所詮、学業についていけず、かといって代わりに打ち込めるものも見つけられず、暇つぶしに弱いものいじめを楽しんでいる程度の輩なのだ。
 チッ、とわざとらしく舌打ちをすると、
「行こうぜ」
と、公平の方をにらみつけながら、3人は倉庫から出ていった。

 3人が消えるとその奧から、半ば上着を剥ぎ取られたざんばら髪の少年がその姿を現した。倉庫の片隅で体を丸め、頭を抱えてがたがたと震えている。

「ぶっさん、何やってんだよ。猫田が怒ってるぜ」
 これまた野球部のユニフォームに身を包んだ少年がドアから顔を覗かせて怒鳴った。少女めいた可愛らしい顔をしているが、その実レギュラー争いに参戦している1年のエース、中込フトシである。
「うっせ、バンビ、おまえがノーコンなのが悪いんだよ」
「はあ? 何言ってんだよ。ぶっさんが突然後ろにボール投げたんだろう。あーあ。ガラス割れちゃってまあ」
「はいはい、一緒に怒られに行こうな」
「何で俺まで。・・・そこにいるの誰?」
「迷子だよ」
 そう言って公平は、フトシの背中を押して外へと促した。
「つーか内山じゃん。なんでこんなところにいるわけ?」
「ほれ、猫田が怒ってるんだろ」
 半ば強引にフトシを倉庫の外に出すと、公平はふり返って内山に言った。
「また迷わないうちに、さっさと帰りな」
 倉庫のドアがゆっくりと閉まる。
 内山はその場にへたりこんだまま、その後ろ姿をただ見送った。

 翌日の放課後。
 部活に行くために廊下を歩いていた公平は、ふと奇妙な気配を背後に感じて振り返った。
 そこには内山がひっそりと立っており、上目遣いで公平を見つめていた。
「どのわああっ! おまえいつからそこにいた!」
「ご・・・ごめん」
「何か用?」
 内山はそれに対して何かを言おうとしているようなのだが、意に反して頭や手足だけがうろうろと落ち着きなく動いてしまい、発語に至るまでに時間がかかってしまうので、かなり相手をイライラさせてしまう男なのである。
 
 内山はある意味で、公平の学年の中で、その存在を知らぬもののない有名人だった。
 もちろん良い意味ではなく、稀代の変人として。
 挙動不審な動きとひどいどもりのため、女子は薄気味悪がって口をきこうとしないし、男子は面白がって格好のネタにしていた。
 噂では一年留年しているらしく、そのことも周囲に距離を置かせてしまう原因になっているようだった。
 公平が直接目にしたのは初めてだったが、昨日のようなことは、おそらく内山にとって日常茶飯事なのだろう。
 別に公平は、『いじめは止めさせなくては』などと高尚なことを考えていたわけではなかった。単にそういうことをする方もされる方もダサくて見ていられなかっただけで、恩に着せる気もなかったのだが・・・。

「・・・あ、あのね、あのう、・・お、おれ、おおおおれとね・・・」
「だーぁあああっ、イライラする! もっとシャキシャキしゃべれ!」
「ご・・・ごご、ごめん」
「いちいち謝るな!」
「ごめん・・・」
 そう言うと突然、内山は踵を返して逃げ始めた。

 なんなんだよ。わけわかんねえよ。

「逃げるな内山! 言いたいことがあるなら、最後までしゃべってけ」
 公平の怒鳴り声に、内山の足がぴたりと止まった。
 それからゆっくり、おそるおそる振り返って公平の顔を見た。そのおどおどした様子を見ていると、なんだか可哀想になってきて、少しだけ公平の口調は柔らかいものになった。
「ほら、言ってみろよ。そのために、俺の後を付けてたんだろ」
 公平の言葉に、内山はごくりとつばを飲み込むと、喉の奥から声を絞り出すようにして再び喋り始めた。
「おっ・・おおおおおれ・・・とっ、とっとと、と、ととおっ」
「と?」
「と、友達になっ、てく、ださあいっ!」

 ・・・なんだそりゃ。
 中学生が「付き合ってください」「はい」で交際を始めるならいざ知らず、高校生にもなって「友達になって下さい」はないだろう。
 
 内山の言葉に公平が軽い脱力感を覚えていると、頭を下げたまま『お願いします』の形で突きだされた内山の両手が、公平の胸元に押しつけられていることに気がついた。その手の中には封筒が握られている。
 公平が封筒を受け取り、その中を見ると、万札が数枚入っていた。
 公平の頭に瞬間的に血が上った。
「バカ! おまえ、ざけんな!」
 あまりの剣幕に、そばを通っていた男子生徒が目を丸くして二人のことを交互に見て、そそくさとその場を立ち去った。
「ダセエことしてんじゃねえよ。人を金で釣ろうとするな」
 大声にびっくりしたのか、内山はその場にへたり込んで、さめざめと泣き始めた。その周りを生徒達がじろじろと眺めながら通り過ぎていく。

 ・・・なんで泣くんだよ。

 これではまるで、公平の方が内山をいじめているように見えてしまう。公平は内山の手をつかむと、階段下のデッドスペースに引っ張っていった。
 狭い空間の中、しゃがみ込んで公平は内山と向かい合った。 
 内山は相変わらず下を向いたまま、ぼろぼろと涙をこぼしている。
「泣くなよ。そんなんじゃ、いつまでたってもお前はカモにされてるだけだぞ。それでいいのか?」
 内山は俯いたままぶんぶんと首を横に振った。
「だったら、お前も人に頼ろうとしないで、もっとしっかりしろよ。そんなんだから、からまれるんだぞ。俺には野球があるから、いつもお前のことを守ってやることは出来ないんだ。だから、自分でどうにかすることを考えろ。もしそれでもどうしようもなかったら、野球部のグラウンドの方まで逃げて来い。なんとかしてやるから。それならできるか?」
 今度はこくこくと何度も頷いた。
「じゃあ俺は行くから。落ち着いたら、また変なのに追いかけられないうちに、さっさと帰れよ」
 こくりとうなずく内山を確認すると、公平は立ち上がった。
「ほんとに大丈夫か?」
「・・・うん」 
 歩き出した公平の背後から、小さな声が聞こえた。
「・・・ありがとね」

「・・・マジかよ」

 さらに翌日。
 公平が朝練のために学校に行くと、野球部員達がグラウンドの隅に固まって、遠巻きに何かを眺めていた。
「なにかあったのか?」
「あれ・・・」
 フトシが指さした先にあったのは、グラウンドの真ん中で滅茶苦茶な素振りをしている内山の姿だった。

「あれを野球部に誘ったのはおまえか、田渕?」
 放課後の練習時、野球部監督猫田が公平に声をかけてきた。その手には、内山の名前が書かれた入部届が握られている。
「別に誘ったわけじゃありませんけど。まあ、成り行きで」
「あれは・・・どうにもならないと思うぞ」
「まあ、いいじゃないすか。球拾いくらいなら出来るでしょう」
 

 それから一ヶ月。 
 昼休みに公平が机の上に足を乗せてジャンプを読んでいると、窓際でひなたぼっこをしていたフトシが言った。
「あ、うっちーが素振りやってる」
「ふーん」
「なんかさ、休み時間になる度に校庭に飛び出して素振りやってるらしいよ。下手だけど」
「あー、そう」
 素っ気ない返答にもめげず、フトシは公平の方を見ると軽く笑った。
「ぶっさんてさあ、なにげに影響力あるよね」
「知るか」

 甲高い女の声が聞こえた。
「ぶっさん、ぶっさん、見て見てこれー」
 ばたばたという足音とともに二人のもとに寄ってきたモー子が、公平の顔に向かって赤く染まった唇を突きだした。
「あんだよ、天ぷらでも食ったのか? 油ぎってるぞ」
「ひどーいい。グロスよー。夏の新色なのお。ねえねえ、ちょっと色っぽいなんて思わない? きゃあ」
「うぜえ。本読んでるんだ。あっち行け」
「ぶっさん、女の子にそういう言い方をするのは、良くないと思うよ」
「あー、今バンビいいこと言った。ほらねえ、ぶっさんたらあ、もっとよく見て見て」
「うるせ。気安くぶっさんとか呼ぶな」
「じゃあ、公平っち」
 公平は忌々しげに眉間にしわを寄せると、大きく舌打ちをした。 
「あのさ、モー子。おれの下の名前は覚えてる?」
「知らなあーい。ていうか、バンビの名前って何だっけ?」
「つーか、お前の名前こそ何なんだよ!」
「モー子はモー子だもん。えへへ」

 内山は必ずしも野球部に歓迎されて迎え入れられたわけではなかった。内山のことを不気味だと思っている部員がほとんどだったし、特に運動神経がいいわけでもなかったからだ。
 しかし時間がたつにつれて、内山に対する人々の認識は徐々に変容していった。内山は別に頭がおかしいわけでも足りないわけでもなく、情報の取り入れ方は普通だが、処理と出力の仕方が普通とは違うので、はたから見ると奇矯な行動に見えてしまうらしいことに、なんとなく周囲の人間が気づくようになってきたからだ。
 誰も内山の家を知らなかったり、木更津の名物ホームレスであるオジーの息子説が流れたりと謎の多い男だったが、それも<そういうもの>として、いつの間にか人々に受け入れられた。もちろんその影で、公平がさりげなく内山に役割を与えたり、部員の輪からはじかれないように気を配っていたからこそ、野球部は内山の居場所たり得たのだが。
 
 公平は表だって仕切るタイプではなかったが、人を穏やかに惹きつける吸引力を持っていた。内山は野球部やクラスの中よりもむしろ、公平が作る『場』の中に、自分の居場所を見つけていた。

 居心地の良かった場の中心は、その数年後に消えてしまうことになる。
 それは大きな喪失だったけれど、同時にそれは彼らに成長を促す分岐点だった。





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